The mind’s negativity-capacity
Is no match
For the heart’s God-receptivity.
Sri Chinmoy, Twenty-Seven Thousand Aspiration-Plants, part 179, Agni Press, 1993
人生を満たすもの 純粋な考え
純粋な考えは
この世の全てのダイヤより貴重なもの
純粋な考えの中にのみ
神の息吹はとどまるから
グルとはサンスクリットの言葉で `` 啓発している人 `` です。そして内的悟りにおいて、唯一のグルは人間ではなくスープリームなのです。
啓発への旅の途中で私達を助けてくれる人をグルと呼んでもかまわないかもしれません。
精神的な師あるいはグルは家族の中の年上の人のようなものなのです。
求道者はまだ若い兄弟、姉妹なのです。精神的な師は本当のグルがどこにいるかを教えてくれるのです。
真実のグルは天上ではなく、私達の非常に深い霊的ハートの中に存在します。
しかし、霊的ハートの中に非常に貴重な宝物があっても、私達はそれを容易に見ることも感じることもできないのです。
ですから私達は助けが必要になります。私達の友達の中にグルと呼ばれたり、精神的な師と呼ばれたりしている人がいるならば、その人の所へ行き、私達自身の貴重な宝物を見つける方法を教えてもらいます。
現存しているグルを持つというのは必須条件ではありません。非常に賢明なことです。
あなたが最終ゴールを知っているならば、はやくそこへ着きたいと望むでしょう。
もしも、あなたが賢明ならば、もっとも安全で容易なゴールへの道を示してくれる人の助けを受け入れるでしょう。
悟るために、何百、何千年と費やしても気にとめない方は精神的な師を必要としません。
しかし、できるだけ早くゴールに着きたいと望むならば、そのときには師はどうしても必要です。
師を持つということは、あなたの精神的な前進を助けます。
精神的な師は精神的人生における個人教授なのです。個人教授と普通の先生とは大きな違いがあります。
普通の先生は生徒に試験をして、採点をし進級させるか落とすかします。
しかし個人教授は自宅で生徒を励まし、どうすれば試験に合格できるのかを教えます。この世において、何を学ぶにも初心者にとっては先生が必要です。数学や歴史を学ぶのに先生を必要としています。
しかし人生の全てのものに先生が必要と感じているのに瞑想については必要ないと感じるのは馬鹿げたことです。
私達はなぜ自宅で勉強しないで大学へ行くのでしょうか。つまり私達はそのことを非常によく知っている人が大学にいるからこそ行くのです。
グルなしでは、前進は非常に遅く、不確かなものになるでしょう。あなたは高い経験を得るかもしれませんが、自分自身で、普通の人間なのにどうしてこのような経験をもつことができるのだろうかと思うかもしれません。
また友人に話しても、それは幻覚だと言われるかも知れません。
しかし内的な真理を知っている、悟りを開いた人が存在するならば、その経験は真実であると教えてくれるでしょう。
そして師は求道者を励まし、瞑想中に誤ったことを行っているならば、どこが誤っているかを指摘します。
あなたがある過程を終了するならば、内的な宝物と接触できたならば、もはや先生は必要ありません。あなたは歌を学びたいならば、歌手の所へ行き学びます。踊りたいのならば、ダンサーの所へ行きます。
上手な歌手やダンサーになったならば、二度と先生の所へ行く必要はありません。精神的な分野においても同じなのです。
あなたは初心者ですので助けがいりますが、より前進すれば誰の助けも必要とはしなくなるでしょう。
誰かが真実の師の弟子であるならば、グルと彼自身を相違のある存在とは感じないでしょう。「グルは木の頂上であり、彼は木の幹」ではなく、彼自身の最高の部分と感じます。
彼は「グルと彼自身は一つであり、彼自身の最高の発達した部分」と感じます。